唐人お吉 2001年2月

「花の生涯」では、お吉の部分にかなりのページを割いてあります。

たか女が実在したかどうかは定かではありませんが、お吉、お福は実在の

人物として記録に残っています。

大きな歴史の流れの中に時代に翻弄された女性もいたのも彼女達にとって

は辛い運命ですが、日本の開国の時にこの様な女性がいたのも事実です。

  お吉は、伊豆下田の船大工市兵衛とおきわの二女として、
天保12年(1841年)に生まれている。

お吉、17才の時、下田奉行所の井上信濃守清直と中村出羽守の二人が

ハリスの持病の胃病が悪化したため、「ハリスの看病」をしてほしい」と

頼み、看護が目的で遣わしたようだ。

お吉が下田の玉泉寺に通うようになったのは安政4年(1857年)522日で、ハリスはこの時53才。

実際にお吉との間に肉体関係があったかどうかについては

わからないとある。

又、給料の方は、お吉の手当ては月10両で、支度金25両とある。

一両を八万円とすると、月給が80万円の高給取であった。

お吉との間は長く続かずその後、おさよという女性が上がっている。

彼女も5ヶ月ほどで暇がだされている。

一方、ヒュースケンは、15才のお福を選んでいるが、

527日から玉泉寺に通い彼の相手をしている。

彼女の場合、妊娠したらしいが堕胎をしている。

(当時の幕府は混血児が生まれるのを警戒していた。)

このお福の後がまは“おつる”という女性がヒュースケンの

寵愛を受け長く彼の面倒をみたらしい。

お吉はその後、下田を逃げて明治元年(1868年)に横浜で、

本でも登場している大工の鶴松と同棲するが、のちに下田に舞い戻り、

女髪結いを営んだり、「安直楼」という小料理屋を開いたりするが

次第に酒浸りになり明治23年に稲生沢川に身を投げて死んだしまった。

たか女 2001年2月21日

   

 酒道さんの言われるようにこの本の主人公は“たか女”でしょう。

 物語も一応、直弼を軸にして、歴史の流れに沿って

 展開していますが、作者は彼女に主役の座を与えています。

   “たか女”を中心として、日本開国の騒乱と共に物語は進む。

            妖しい魅力に魅了され、彼女と関係をもつ男達。

 

彼女の魅力はP114()から、「たか女は、場所と時に応じて、
あざやかな変転を心得ていた。

三味線を取れば、師となり、箕箒をとれば、卑妾となり、闇にあれば、

娼ともなった。而して、屈する色なく、臆する辞なく、思うがままに自由にふるま

うのだから、直弼としても、しかめつらしい顔をしてはいられない。…・」云々の

表現に見事に現されています。

(文字の説明。箕箒(きそう)とはちりとりとほうきのこと、炊事、掃除、

洗濯など家事万能を意味する。)

又、P65には、

「たか女は謎の女じゃ、そこにはまた、魅惑もある。」

男にとって、才色兼備で謎めいていれば、クモの巣に絡め取られた蝶と同じで身動きができなくなってしまう。

直弼は一応、距離を置いているが、心中には未練があり、主膳との仲も険悪に

なるが、立場上、寛容なところを見せる。

主膳や多田は彼女の魔力から逃げることはできない。麻薬と同じで辞めようと

思うが、目の前にそれがあるとつい手がでてしまう。

多田にいたっては、可愛さあまって憎さ百倍で追っかけまわす。今でも、

ストーカー騒ぎがあるから、今も昔も変わらない。

  翻って、“たか女”の身になって考えると、

女を武器に男を手玉に取って、その時、その時に男から男へと身をまかせる。

彼女の心境を吐露すれば、P292

「主膳のことが思い切れない。直弼への未練もある。然し又、多田にも惹かれる。

 強い拒絶のうしろからどうせ一度、彼の自由になったからは、このままではすま

せないと膠着する心理もある。」

彼女の生き様は、多分、女一人で生きていくには辛い、側に自分を愛してくれる人

がいれば、その人について行こうという心情ではないでしょうか。

      *登場人物

                   志津     多紀
     

                   佐登(里和)長野主膳

                                       

                井伊直弼     たか女           

                        (村山たか)           

                   昌子     (加寿江)     多田一郎時貞

                                                                                帯刀

桜田門外の変 2001年2月28日

明日から三月、もう春はそこまで来ています。

花屋さんの店先に菜の花があるのが目に留まり、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句と同時にTVの「菜の花の沖」で、嘉兵衛があたり一面の黄色の菜の花を歩いている場面を思い出しました。

が、今は「花の生涯」です。

“心の絃”に又さんが詳しい資料を掲載されている「桜田門外の変」についての疑問です。

万延元年三月三日、桜田門外で襲撃されました。

直弼は大老職につき通商条約、将軍の跡継ぎ問題と大きな仕事をやり遂げました。

しかし、この過程で多くの敵を作りました。

多くの敵がいる事を認識していて、松平信斉が「水藩激派の一部が、三々五々、江戸へ忍び入ったとの…・」との報告を受けるなど事前にテロの情報を持ちながら通常の警備体制で登城しています。

今の日本と同じで“危機管理”が全くなっていません。

襲われる危険があるならば、何故、主膳等がもっと強力な防禦体制を取らなかったのか疑問です。

直弼は“安政の大獄”で100人もの人々を粛清しました。その罪の意識で暴徒のなすがままに死んでいったのか、それとも過激派の実力を侮っていたのか。

暴徒に対して一矢も報いずに、むざむざ殺されたのは「花の生涯」にしては、散り際が寂しい気がしました。

又、60人の一隊が、18人の浪士に襲撃され、首級まで挙げられるとは、警備のレベルがよほど低かったのではと想像します。

などなど、三月三日が近づくにつれて、つまらない考えに囚われる私です。

若し、彼が死んでいなかったら時代はどのように変わっていただろうか?

伸さんが大島蓼太について書かれていますが、

「世の中は三日見ぬ間に桜かな」が彼の作品とは知りませんでした。

もうすぐ桜の季節、季節同様世の中もめぐるましく廻っています。

直弼は攘夷派? 2001年3月3日

伸さんwrote

<関心を寄せた長英や崋山の後に出てきて、彼らと同じ考えをもった

<吉田松陰や橋本左内らを、直弼は何故弾圧したのでしょうか?

  私も直弼が冷飯食いの時は開明派だったのに、何故、転換したのかと

不思議に思っていました。

 

この時代の背景をもう一度振り返って見ると、 一橋慶喜を押す、松平春獄、伊達宗城、島津斉彬、山内容堂等の新藩・外様大名と徳川慶福を押す、井伊直弼等の譜代大名の権力争いです。

とりもなおさず、井伊直弼と福井藩主松平春獄の争いでした。

春獄は若い橋本左内を側近にして幕府や朝廷の要人を味方に引き入れる朝廷工作を行い、主膳らとの争いになるのですが、この過程において、直弼は譜代大名としてのいわゆる体制側のリーダーとして組み入れられ開明派と言われる春獄と敵対していったのではないでしょうか。

春獄は攘夷論から開国論へと転換していますから、直弼との共通点は持っていたと思いますが、いかんせん将軍継嗣の争いは個人の枠を越えて組織の争いになっていますから妥協する余地はなかったのではと推測します。

春獄が「慶喜公御言行私記」という冊子をつくらせ、これを要人に配布したと文書が名古屋の「蓬左文庫」あるとのこと、機会があれば見に行きたいと思っています。