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如何に生きるべきか

漂流と言えば、「十五少年漂流記」「ロビンソン・クルーソー」を思い出します。

特にジュール・ヴェルヌ作の「十五少年漂流記」は胸を躍らせて読んだ記憶があります。

が、この宝順丸の物語は又、別の面白さがありました。漂流の状況を詳しく見てみると、

天保三年(1932年)十月十日七時 熱田港出発。

十一日三時 鳥羽へ入る。六時 鳥羽を出港。午後三時 「空が灰色に垂れ込め、海も鉛色にうねっている。…」「五日四晩猛り狂った嵐は十五日の昼過ぎになって・…」十五日午後 以後一年二ヶ月の漂流生活の始まり。

天保四年、十二月十日、フラッタリー岬へ漂着。

乗組員の状況、乗組員14名の性格、年齢、死亡日を纏めると、

名前

年齢

死亡日

生存日数

船頭

樋口重右衛門

不明

1024

379

舵取

岩松

28

生存

420

岡廻

六右衛門

物知りで算盤も読書きも達者

不明

1220

70

水主頭

仁右衛門
おう!あれが陸か」
仁右衛門の声もふるえた。

43

12月10日

395日

水主

利七

気が狂い、辰蔵と共に海へ転落。

不明

527

257

水主

辰蔵

不明

527

257

水主

政吉

不明

511

241

水主

三四郎

不明

55

235

水主

千之助

不明

53

233

水主

常治朗

不明

9月27日

377

水主

吉治朗「音吉の兄、音吉に対してコンプレックスを持ち、水を盗む。」

18

1月20

130

炊頭

勝五郎「なすべき事は、手順よく取り運んだ。・・米二十俵ほどを三の間にうつした。」

不明

430

230

久吉

15

生存

420日

音吉

14

生存

420日

 

死因は利七と辰蔵を除いて、壊血病。生きる為の条件は、水と食料と気力。

T 肉体的に若い。

U 強靭な精神力

「生きる」ということに執着する、絶対にあきらめない。

V 環境適応。

どんな環境にも適応出来る、柔軟な考えが出来る。

 

上記の条件で吉治朗 が、二番目に死亡しているのは、多分「生きる」という

願望が希薄で、逆に「死んで」楽になろうとしたのでは。

利七は気が狂ったが、人間、極限の状態になると、別の世界に飛んでしまう。

ここでは、一人しか狂わなかったというのは、彼らはもともと海の男だから

精神自体は強靭なものを持っていたと思われる。逆に、音吉、久吉が若すぎるのに強い精神力を

持っているのには驚かされる。今の中学生がこの状態で生きていくのは不可能でしょう。

他の仲間は壊血病で死亡しているが、壊血病とは、

死を招く壊血病といわれ、古代エジプトのパピルスにも記録が残るほど長い間、

我々人類を悩ませた病で、この病気にかかると血管がもろくなり、歯茎や内臓など

体のあちこちで出血がおき、最後は骨までももろくなり死にいたる。

現在はビタミンC不足が原因とわかり治療法も定まっている。

では、ビタミンCを補給する方法はといえば、船に付着する貝や藻で一時的に補給できたが

冷蔵庫がない当時としては野菜を保存できなかったので解決策とはならなっかた。

軍艦イーグル号では、缶詰、瓶詰め、ライムジュースが壊血病予防として食されているが

遠洋航行を目的としている船だから、その辺の予防策は完全であった。

 

飲料水の確保。

「らんびき」で海水より蒸留水を作るが、一日八升(14.4リットル)が限度であり、

これには薪が必要であり、船上の薪には限りがあるので、後は雨水が頼りとなる。

「五升の米を炊くには五升の水が要る。あと三升のうち、一升四合を十四人の飲み水とした。

一日一合では、足りるわけはない。」

とあり、最初の雨が113日にあり、これを貯えるが、出港以来23日で水に困っているので、

 

貯水槽にあった水の量は一日八升の使用で299升(538リットル)しか残ってなかった。

皆さん、一日一合(180cc)この暑さの中、コップ一杯の水で生きることができますか?

それも一日だけでなく、毎日これだけだったら。

吉治朗 が味噌をなめ過ぎ、水を盗みに行った気持は判ります。

海嶺の時代背景

*鎖国は何故行われたか?誰が決めたのか?

家康は開国主義で通商拡大政策を取っていたが、秀忠、家光の時代に

貿易よりもキリシタンに脅威を感じ鎖国体制を固めた。

江戸時代の人口3000万人、充分自給自足できたので、

外国との貿易は必要が無かった。

現在の日本の人口12500万人。日本は加工貿易なしでは生活できない

事を考えると当時の施政者は通商の必要性を考えなくても良かった。

その上、統制の妨げとなるキリシタンの脅威をも排除できる、

鎖国制度を決めた。

ただ、中国、オランダとは交易をして、海外の情報については、

幕府は十分な知識を持っていた。

外国との通商を禁ずる為、

3代目家光は大型船(500石以上)建造禁止の条例を加える。

4代目家綱は1663年にキリスト教禁止の徹底を条項に加えた。

13代家定はペリーの来航を期に開国に向けて大型船の建造を、

禁止から届出許可制に改訂する。

 

武家諸法度の推移。

 年度

     将軍

                  内容

1615

家康

全文13条、大名を厳しく統制

同上

同上

武家諸法度の作成

1629

2代目秀忠

内容変わらず

1635

3代目家光

改訂19条になる。

同上

同上

参勤交代制度化、大型船建造禁止

1663

4代目家綱

キリシタンの禁止徹底、不幸者の処罰

1683

5代目綱吉

全15条、殉死の禁止

1710

6代目家宣

全文漢文を和文へ、ワイロの禁止

1717

8代目吉宗

和文から漢文へ戻す。

1854

13代目家定

大型船建造を届出許可制とする。

 

                                           
寺子屋

テーマから外れていますが、番外編ということで、

「岩松は腹に巻きつけていた手紙に手をやった。そして思い切って、それを呪術師の前に置いた。」

岩吉が助けの手紙を書いてそれをきっかけに助かりました。

船頭の重右衛門も日記を書いています。

岡廻りの六右衛門は算盤も読書きも達者とあります。

音吉、久吉も

「良参寺の境内に・・・十坪ほどの寺子屋が建っていた。」ここで読書きを学んでいます。

当時(江戸時代)の識字率は30%を超えていたといわれていて

庶民の教育レベルの高さに驚かされます。

当時の教育制度は

民間に寺子屋(その数1万5000)、私塾{適塾(緒方洪庵)、松下村塾(吉田松陰)}、

それぞれの藩には藩校{弘道館(水戸藩)、明倫館(長州藩)、}と郷学(藩が庶民の為に)あり、

幕府には有名な昌平坂学問所がありました。

 

音吉等はお寺で学んでいますが、

当時の師匠は、武士、浪人、僧侶、神主が教え、教室は自宅で教えていたようです。

授業は主に読み、書き、そろばん、時間は6時間位で各自の学習ペースに合わせて教

えていたらしく、今の学校よりも、学習塾に近いような形だと思います。

今でも世界に文盲が多い事実を考えると、寺子屋のシステムは素晴らしいし、現在の

日本があるのもこのような教育制度があったからだと思います。

しかし、現代の教育制度は揺らいでいるように見えますが。