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生麦事件 読後感 2002/8/27


 

激動の幕末の幕開けとなった「生麦事件」。

この「生麦事件」を契機にして、明治維新へと時代は変わる。

この時代には多士多才の人物が騒々しい世相を背景に、
イギリスを
はじめとする外国勢、幕府、
各藩との軋轢もなんのその活き活きと
描かれていて面白かった。

吉村昭の本は初めてでしたが、司馬遼太郎とは又、
違った文体、表現、
歴史考証で新鮮な気持で読めました。

この時代の各藩が軍事力、経済力をバックに中央政府や、外国に対抗する。

様子を読んでいて現代の各県の自治体を比較すると
そのギャップに驚く。
時代が変わったとはいえ、
今の鹿児島県が中央政府や外国に対して対等に
物を言い、
将来を見据えた行政をでき、それは疑問だ。
まず、第一に
人材がいない。

鹿児島の県知事が誰かは知らないが、薩摩の久光みたいに強烈なリーダーシップを発揮できるかと言えば、それは、NO!である。

 現在の日本の不甲斐なさを見るにつけ、
人材育成が如何に重要かが解る。

明治維新が成功したのも、
そうそうたる人物の登場によってなされた。

 明治維新で活躍した人物

薩摩藩→大久保利通、西郷隆盛、黒田清隆

長州藩→木戸孝允、伊藤博文、井上馨、山形有朋

土佐藩→板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行

肥前藩→大隈重信、大木喬任、副島種臣、江藤新平

 

等の名前を挙げる事ができる。

志半ばにして倒れた、長州藩の高杉晋作、土佐藩の坂本竜馬

中岡慎太郎もいた。

「生麦事件」については粗筋を見ていただくことにして、

ここでは“最後の将軍”徳川慶喜に興味を持ちましたので
少し書きます。

 

慶喜は天保八年(1837年)九月二十九日、
徳川御三家の一つ水戸
徳川斉昭の七男として生まれる。

弘化四年(1847年)御三家の一つである

一橋家に跡取りがいなくなったとから一橋家を

相続し、家康から一字を与えられ慶喜と改名する。

十三代将軍家定の継嗣問題の時、一橋派に

擁立され、井伊直弼等南紀派の推す家茂と
十四代
将軍の座を争って敗れ、安政の大獄の時、隠居謹慎となる

しかし、井伊直弼が暗殺され、幕府が公武合体の方針に転じると謹慎を解かれ、久二年(1862年)七月、一橋家を再相続し、将軍家茂の後見役となる。

慶応二年(1868年)七月二十日、大阪城で家茂が病死すると松平慶永、松平容保らに推され徳川宗家を相続する。

慶喜はフランス公使ロッシュとの交流を通じ、
フランス語を学び、
「フランスかぶれ」と言われていた。

ロッシュとの意見交換を通して慶喜は、フランスと連携を取り、幕政・軍政の改革を始める。慶喜の相談役に津田真道、西周がいて、彼等からフランス語や三権分立、議会制度を学び「大君制」に至り、大政奉還と続く。

慶喜は大政奉還後、政府の元首を大君とし、これに自分がなり、その下に行政機関を置き、幕府が続くことを目論んでいたが、徳川氏の辞管納地の

命令が出され、これに幕府軍が怒り、鳥羽伏見の戦いを皮切りに討幕軍との戦いに入り、戊辰戦争となる。

慶喜は幕府軍が敗れると江戸の寛永寺に蟄居する。江戸開城後には水戸弘道館に入り、明治元年(1868年)に駿府に移る。

慶喜は静岡(駿府改め)に明治三十年(1897年)まで三十年間
生活する。

大正二年(1913年)十一月二十二日に没す。

 

彼の人生をおおまかに書きましたが、幕府の長として前半は波瀾万丈の一生で後半が穏やかな一生をすごしており、激動のこの時代にこの様な生き方があるのに興味を持ちました。