薩摩藩とイギリスの和議 この闘いで、久光等は彼らとの武器、技術に天と地の差があるのを実感し、
藩内では
この事実より藩論は尊王攘夷で統一されていたが、久光
は”エゲレス国と和議をむすぶことについて是非をはかり
たい”と決断する。
幕府の仲介により、9月28日横浜村のイギリス公使館で
一回目の談判が開かれた。
ニールが”談判ニ応ジラレタ真意ハ、イカナル訳カ”の問い
に、薩摩の重野は”その意はイギリスと日本は条約を
島津 久光
結んだ和親の国であり、日本に属する薩摩藩には、
貴国と戦争に及ぶ理由はないからである”の言葉で 始まり、三回の談判を通じて、
薩摩藩は
一、賠償金、二万五千ポンド(六万三百三十三両)を支払う。
一、リチャードソン等を殺傷した者を処罰する。
と上記の条件で決着をつけ、その上、軍艦購入の斡旋、今後イギリスとの友好関係を
書面に残し、以後イギリスと友好関係に入る。
公武合体論
寺田屋事変(1862 年)後、島津久光のとなえる公武合体による幕政の改革は、
一橋慶喜に対して横浜鎖港に断乎反対であると説き、二月二日には慶永、宗城とともに
二条城におもむいて慶喜に会い、切論した。しかし慶喜はそれに応じる気配はなかった。
これ等の経過を踏まえてしだいに大勢の支持を失ってきた。
尊王壌夷から討幕へと急激に時代は動き、これに対応するため薩摩藩では、沖永良部島
で大島吉之助と改名し、流罪禁固の身であった西郷隆盛を召喚、西郷は鬼界ヶ島に寄せ
て村田新八を乗せ時代の表舞台へと登場する。 西郷 隆盛
西郷 は、禁門の変で朝敵の立場へと追い込ま れた長
州藩を討つために幕府が行った第 一回長州征伐に参
謀長として参加、見事な交渉力で長州から謝罪を取り
付けた。 すでに幕府の能力に見切りを付けていた西郷
は、1865 年(慶応元年)の第二回長州征伐には出兵を
断り、武器や汽船購入の斡旋(あっせん)を行って長州
を陰から援助し た。その後、坂本龍馬らの仲介によ
り、 薩長の連合が成立し、西郷をはじめ薩摩 藩は
幕府の解体、やがて倒幕へと動いてゆく。
寺田屋事件
文久2(1862)年4月23日,京都近郊の伏見の寺田屋で,薩摩藩尊攘派志士が義挙の兵を
あげようと集まった者達を当時上洛中の島津久光の命を受けた大山格之助ら九名の藩士
が鎮撫におもむき、それに応じなかった有馬新七ら六名を斬殺し、重症を負った二名に
自刃を命じた、藩士有馬新七らは挙兵討幕を企て,関白九条尚忠,京都所司代酒井忠義
の殺害を計画して寺田屋に集結していた。
この乱闘は討つ者も討たれる者も同じ薩摩藩士でした。なお,若年の大山巌,島通庸,
西郷従道,篠原国幹など明治の元勲も参加していた。
禁門の変
池田屋の変は長州藩を著しく刺激し、海路大阪に至り、京の周辺に兵を進めた。
入京して、再び朝廷を掌中におさめようとしたのである。
国司信濃ひきいる長州藩兵八百余は一隊が中立売門を攻め、そこを守る筑前藩兵を排
除して門内に突入する構えをしめした。これに対して一橋家の手兵と会津藩兵が迎えうち
さらに薩摩藩兵が来援して長州藩兵は敗退した。
長州軍は二千人の兵で京都を包囲しすでに勝利は目前とみられたが、薩摩藩の西郷吉之
助が各藩を説得し土佐藩、伊予宇和島藩、薩摩藩の三藩合同で朝廷に長州討伐をする。
長州藩対四カ国連合
英国大使オールコックは赤間関海峡で列国の艦隊を砲撃した長州藩に対して武力行使を
考え、フランス、オランダ、アメリカの各国公使と総領事は協議し、八月三日、全艦隊17隻
が集結。前田台場、壇ノ浦台場に攻撃を始めた。
艦隊側の兵多数が上陸し、長州側の敗戦は確定するに至り、和議を諮る。
八月十四日、四カ国連合艦隊と講和条約をむすぶ。
条約文は
一、本日より以後、外国船が赤間関海峡を通航する折には長州藩側は懇切に扱う。
など、五箇条の講和を結ぶ。
賠償金については戦の始まる前に高杉と井上が外国船への砲撃が朝廷と幕府の命令に
従ったまでであるという文書の写しがオールコックに渡り、これにより幕府が賠償金を
支払うことになり長州藩は安堵する。
しかし長州藩には長州藩征伐の大軍がせまっていた。
第一次長州征伐
敬親は征討軍との戦いも辞さずという意見をいだいていたが、恭順を旨とする俗論党の
優位は動かず筑前藩士喜多岡勇平等は戦乱を回避しょうとして薩摩藩の斡旋を求めた。
征長軍総参謀の任にあった西郷吉之助(隆盛)は長州藩を恭順させて事態を穏便に
解決する。長州藩の処理はすべて西郷の手によって成り、かれの存在はにわかに注目
されるようになった。
第二次長州征伐
攘夷論に固執していた両藩の姿勢は外国との戦争によって崩れ、根本的に対立する
要素は失われていた。両藩の間には融和の気配がきざしてていた。
この時期、土佐藩の坂本竜馬は勝海舟の失脚により所属を失ったいた。
薩摩藩は海軍力の強化のため彼を雇う、坂本、中岡は両藩の融和の醸成に努めた。
慶応元年(1865年)四月に幕府は第二次長州征討令を発し、翌月には将軍家茂が
江戸を発して5月25日に大阪城に入り、本営とした。
慶応二年(1866年)六月七日、幕府軍艦が周防大島郡を砲撃したのをきっかけに第二次
征長の戦端が開かれた。
幕府軍は長州藩軍をはるかにしのぐ大軍であったが、長州藩軍は新式の鉄砲を駆使して
一進一退の戦闘を繰り返した。
少数の兵力の長州軍が圧勝したのは、西洋兵術を身につけた藩兵がミニェー銃、ゲベー
ル銃を武器としていたためである。
七月二十日に将軍家茂が脚気衝心で大阪城内で死去すると、徳川本家を相続した
一橋慶喜は敗北を認め軍艦奉行勝海舟を広島に派遣して長州藩と停戦協定を結ぶ。
大政奉還
長州征討の失敗で、幕府の権威はさらに低下し、混乱した政治状勢の収拾のため薩摩の
島津久光、土佐の山内容道、宇和島の伊達宗城、越前の松平慶永による四候会議がもよ
うされた。しかし四候会議のような平和手段では解決できず、
久光は長州藩、芸州藩と倒幕の盟約を結び、出兵の準備をしていたが、十月三日、
土佐藩の山内容道が大政奉還の案を老中に提出した。
政権を幕府から朝廷に奉還して中央政府を構成し、協議は諸藩の列藩会議によるものと
して議長に将軍が就任するという構想であった。
ここに至って、慶喜はこの案に同調し十月四日、朝廷に大政奉還を上表を提出し、翌日
朝廷はこれを承認する。
鳥羽伏見の戦い
薩長は武力を持って王政復古を企て、正新町三条は慶喜が大政奉還を布告した日に
倒幕の勅書を与えた。
大政奉還後の小御所会議により慶喜の内大臣の辞退と領地返納がきまると、旧幕府の
不満は強く、慶応四年(1868年)一月三日、幕兵と会津、桑名両藩約一万五千が
伏見奉行所に進出、一方長州藩を主力に薩摩、土佐、芸州藩士が戦闘に入る。
その日の夕刻に幕府軍は総崩れになって大阪方面に敗走し、薩長藩の圧勝に終わった。
|