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戦艦武蔵

「戦艦武蔵」は昭和四十一年(1966年)9月<新潮>に発表、

新潮社より発行。


 戦艦大和や武蔵の名前を

知っていても、そのdetail

知らない。

この本を読んで初めて武蔵の一生を知りました。

 当時の巨艦巨砲の時代に二年八ヶ月の船体工事と
十九時間
の進水作業を
経て、
昭和十七年八月五日竣工、第一艦隊第一戦隊に編入。

全長260メートル、最大幅39メートル、排出量7万トンの雄姿に2400名の乗組員を収容し敗戦濃厚な時に戦列に加わる。

しかし、砲身長21m,砲塔の直径12mを越える46センチ主砲もハワイ攻撃、マレー沖海戦で、日本海軍が自ら証明した航空主兵という教訓を、逆にアメリカ側が利用して艦に対する航空機の攻撃の前に必死の抵抗も空しく敗れ去る。

十月二十四日、その激戦の場所は栗田艦隊と共にミンドロ島の南方を迂回して北東に艦首を向け、シブヤン海に進んでいる時、六次にわたる敵機の猛攻撃の前にその巨体を沈める。

大和は昭和十二年十一月四日に呉海軍工廠造船ドックで起工され四年一ヶ月後竣工、連合艦体第一戦隊に編入される。

 この本を読んで、当時、日本の造船技術がいかに優れていたかがわかりました。と、同時に隠密裏に棕櫚のスダレで隠蔽し、それも民間の長崎造船所で建造されたことです。

ただ、如何せん、巨艦は航空機の敵ではなかったことです。


冬の鷹 

読書開始 2002/9/15 読破2002/9/21


                                                 

解体新書」(ターヘル・アナトミア)は杉田玄白が訳したものと思っていましたが、この本を読んで本当の翻訳者は前田良沢だとわかり驚きました。

この二人の対照的な生き方の違いが「解体新書」に名を残すか残さないかの差になって現れ、

その後の彼等の人生に大きな影響を与えたのだった。良沢は医科として人体の構造をきわめたいという気持はいだいていたが

オランダ語研究者の立場から完全な翻訳を意図した。彼は翻訳することを通して、語学力を身につけ、オランダ研究に専念しようとし、玄白はオランダ語研究などに興味は無く「解体新書」を世に出せばよかった。

玄白は良沢に「解体新書」の刊行に先立ち序文を依頼するが、良沢は“私の氏名は翻訳書に一字たりとも記載していただきたくないのでござる”ときっぱりと断った。

それで、この本の訳業の関係者の氏名は次のように

若狭      杉田玄白翼    同藩      中川淳庵鱗    東都      石川玄常世通  官医東都  桂川甫周世民      としるされた。

玄白は文化十四年4月十七日、85才の長寿をまっとうする。良沢は享和三年十月十七日、80才で貧困のうちに一生を終える。

 良沢の貧乏でもオランダ語一筋の生き方と、玄白の金にうるさく世渡り上手の生き方が「解体新書」の翻訳を通して比較して描かれている。

理想主義と現実主義の生き方だ、どちらの生き方も人生だ。この本は昭和四十七年(1972年)十月、「月刊エコノミスト」に連載。


星の旅

読書開始 2002/9/14 読破2002/9/20


この作品で作者は昭和41年(1966年)に太宰治賞を受賞。

自殺願望者の若者、圭一ら5人が自殺に至るまでの心の移ろいを圭一の目を通して淡々と書かれている。

何はともあれ、クライマックスの崖の上からお互いの身体をロープに結び、ダイビングする圭一の感情の表現を作者は次の文で現している。

かれは、闇の上方に目を向けた。淡い星が所々にかすかに浮かび上がり、それが徐徐に光を増して、やがて闇は冷たい光を放つ星の群れに満ちた。

これが死というものなのか。かれはかすかな安らぎを覚えながら、白っぽい星の光をまばたきもせず見上げつづけていた。