長州藩は全国諸藩の中で尊皇攘夷の急先鋒で、藩主敬親と世子定広は京に入って
攘夷論者の公卿たちとむすび、京はかれらによって完全に支配されていた。
公卿たちは長州藩を後ろ盾に家茂に攘夷決行を五月十日と定めさせた。
赤間関の戦い
幕府は攘夷に消極的であったが、長州藩は長府藩領の赤間関に台場(砲台)を築造し
アメリカ国籍の「ベムブローク号」を初めにフランスの「ル・キャン・シャン号」、オランダの
「メデューサ号」を攻撃する。
アメリカは「ワイオミング」を派遣し各台場を破壊し、長州藩の「葵亥丸」、「壬成丸」、
「庚申丸」を沈没させた。
フランスも東洋艦隊旗艦「ラ・セミラミス号」他一隻を派遣し将兵を上陸させ長州藩側を
圧伏させる。この敗戦から藩主敬親は高杉晋作を召集し、高杉は直ちに奇兵隊を
組織する。この赤間関での五回にわたる事件は三国と長州藩との問題になり幕府は
枠外に置かれる形になった。それは幕府の権威がすでに失墜していることを示していた。
薩英戦争
一方、イギリスの代理公使ニールの矛先は薩摩藩に向けられ、久光の首を差し出すこと
賠償金を払うこと、交渉の為鹿児島へ軍艦を派遣することを幕府に伝えた。
7月2日、7隻のイギリス艦隊は薩摩藩の「天佑丸」、「白鳳丸」、「青鷹丸」を拿捕、
これにより薩英戦争の闘いが始まった。
イギリス艦隊の旗艦、「ユーリアラス号」は四百馬力、
二十四門の砲を備え、、2371トンをはじめとする軍艦7隻に対して
砲の射程距離、旧式の砲での応戦する薩摩藩は善戦するが
鹿児島上町のほとんどが焦土と化し、琉球船三艘、和船二艘が
消滅させられた。 アームストロング
砲弾(左側)
ただこの日は大暴風であったため艦砲の精度が悪かった、天候がよければもっと被害は
もっと大きかったと思われる。
薩摩藩も準備万端整えていたため、「ユーリアラス号」艦長ジョスリング大佐、
副長ウィルモット中佐戦死をはじめ約六十名の死傷者を出し、艦にも損害を与えた。
この闘いについて久光は”この度の戦は、勝ち負けいずれであったと思うか、素直に申し
てみよ”と家老、側用人に問う、家老の川上但馬が”正直に申しまして、勝ち負けは五分
五分かと存じます”とためらいがちに答えた。
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